ログイン「それより、ルチア。付き合う相手は選びなさいな。貴族とて家柄によって、相応しい生き方というものがあるのですから」
「えー、でも……」戸惑うルチアの耳に、ツェツィーリア様はそっと顔を寄せて囁いた。
「いいこと、ルチア。あの女は、ただの性格悪いだけじゃなくて、シャーデフロイの『魔女』なのよ。下手に深入りすると、あなたまでどんな噂を立てられるか。あたしは、あなたのことが心配で言っているの」
「魔女……ですか? でも、ベアトリーチェ様、とっても優しい瞳をしてらっしゃいますよ?」 「いいから、こちらへいらっしゃい!」ルチアの腕を引き、ツェツィーリア様はわたくしをキッと睨む。
もうっ! 全部わたくしには、聞こえてますけどね! 別に、そんな顔をしなくても、あなたのお友達を盗ったりはしませんことよ。(それでも、なんだか。よくわからない関係ですわね)
殿下を巡るライバルかと思っていたのに、二人はまるで、年の近い姉妹のよう。
べつに、羨ましいなんて、これっぽっちも思っておりませんから。ええ、これっぽっちも!「……わたくしはこれにて失礼しますわ。こう見えて、何かと忙しい身の上ですので」
当たり障りのない挨拶をして、すたすたと離れる。「あっ」とルチアに呼び止められた気がしたが、今はもう振り返れない。
回廊の角を曲がる直前、バージル殿下とローラント殿の会話が、ふと耳に入った。
「エイデンの森か」
バージル殿下の真剣な呟き。いつになく険しいお顔。
「国境付近で、ガリアの斥候らしき影が目撃されたとの報告も上がっている。警備はいつも以上に厳重にしろ」
「はっ! 今度こそ、万全を期します」どうやら、あの堅物王子様は、ただの実習とは考えていないみたいね。
……ああ、本当に、どうにかしてサボることはできないのかしら。顔も合わせたくないのに。(――いいえ、待ちなさい、ベアトリーチェ!)
不意に、脳裏に悪魔的なひらめきが舞い降りた。
(この憂鬱な課題こそ、彼に嫌われるための、最高のチャンスになるかもしれないじゃない!)
そうだわ。暗い森、潜む危険、そして、浮かれる生徒たちっ!
ふふふ、まさに悪役を演じるための、お誂え向きのシチュエーションですわ! わたくしは、先程までの憂鬱が嘘のように、口の端を吊り上げて、ほくそ笑んだのだった。 *** 内心、スキップでもしたいような気分で自室へと戻る。 扉を開けると、すでに紅茶の準備を整えていた、我が専属執事。優雅に一礼。「お帰りなさいませ、お嬢様。……何やら、実に愉しげなご様子で」
「ええ、もちろんよ! イヅル!」なんだか、先程までの憂鬱が嘘のよう。
くるりと一回転してみせると、ドレスの裾が花開くようにふわり。「見つけましたのよ! あの、堅物で、朴念仁で、女心の欠片もわからない、朴念仁な(二回目!)王子様に、一泡吹かせるための、最高のチャンスをね!」
「チャンス、でございますか」ソファに深く腰掛けながら、わたくしは不敵な笑みを浮かべる。
イヅルは滑らかな所作で、高い位置からポットを掲げ、セイル産茶葉の試作ブレンドをカップに注いでくれた。青々しく爽やかな香りね。「魔法生物学の夜間実習よ。今度、エイデンの森で開かれるの」
「ほう。以前のお嬢様なら、決して乗り気でなかったように思いますが」 「本音を言えば、今だって面倒ですわ! 虫だっていっっっぱいでしょうし! 出来れば行きたくなんかありませんわ!」目の前に置かれたフカフカのクッションを、バンバンと叩きながら愚痴る。
虫なんか大っ嫌い!「シャーデフロイ家の娘が、森を歩いて調査だなんて。天地がひっくり返ってもありえないのに、実習なんて全くもって無意味ですわよ」
「おや、お忘れでございますか?」イヅルは、くすり、と悪戯っぽく笑みを漏らした。
「幼い頃は、男子顔負けで、領地の森や野山を駆け回っておられたではございませんか。木登りをして、案の定、枝から落ちて、大泣きなさいましたが」
「そ、それは昔の話ですわ! 忘れてちょうだい!」思わず、顔がカッと熱くなる!
「今のわたくしは、蝶よ花よと育てられた、か弱い乙女なの! とってもお淑やかで可憐でしょ?」
「確かに。あの頃は、意外と運動神経も悪くなかったのに、非常に残念です」 「そこは、今のわたくしを褒めなさいよ!?」どうして、まるで求めてない答えばかり返して来るのよ、この専属執事!
「まったくもう……でも、考えてもご覧なさい。薄暗い森、不気味な虫の声、いつ獣が出てきてもおかしくない非日常的な空間! そんな極限状態で、人の“本性”というものは、露わになるものじゃなくて?」
「つまり、ビーチェお嬢様が本性を曝け出す、と。それでは異名が魔女から、猛獣になってしまいますがよろしいので?」 「いい加減にしないと、本当にぶつわよ」隙あらば、主人をからかおうとするんじゃありません!
天文塔の屋上。巨大半球状のドームが、ゴゴゴ、とさらに重々しい音を立てて開かれていく。 すると、満天の星空を埋め尽くす、グリフィン空挺部隊の影。 塔の外壁からは、イヅル配下のキクチ勢『鴉天狗衆』が、蜘蛛のように這い上がり、包囲網を完成させていくわ。「シャーデフロイの、私設空挺騎士団……!」 ヒュプシュ卿が、呆然と呟いた。 グリフィンに騎乗した精鋭たちが、旋回し、今にも降下せんと見下ろす。「……お母様」 わたくしは、この戦力を誰が率いているのか、直感的に察した。パパが王都に来ている以上、その権限がある人物は、他にいないもの。 イヅルが、わたくしの隣へ駆け寄って、そっと腰を抱く。「ビーチェお嬢様。為すべきことをなさられたようで」「あなたもね、イヅル。……わたくしを、助けに来てくれたのね」「お嬢様の危機に駆けつけるのが、この専属執事たるイヅルの務めにございます。ましてや――」 こちらを流し目で見つめて来る、イヅル。「このクライマックスを見逃すほど、節穴ではありませんので」 するとバージル殿下が、キッと睨みつけて来る。「おい、貴様! 我が婚約者にべたべた触れるな! 不敬だぞ」「その婚約者をないがしろになさった、御方が何をおっしゃるか。ましてや、ダンスの順番すらも、待たずに去られたのに」「アレはッ、その、急ぎの知らせが来たから、席を外したまで……で。そもそも、婚約者を後回しにして、ダンスを踊る方がどうかしてるぞ!」 もうっ、そういう口喧嘩をする場面じゃなくってよ、お二人とも。 呆れの溜息を吐きながらも、わたくしはローラント殿へ宣告したわ。「もはや、逃げ場はないわ。誰の目にも明らかな、チェックメイトよ。ローラント殿」 だけれど。 血まみれの剣を下げたまま……ローラント殿は、静かに優しく、微笑んでいた。「――素晴ら
「貴様は……ベアトリーチェの、執事か!?」 確か、名前はイヅル・キクチ。 常に婚約者ベアトリーチェに纏わりつく、下賤な男。そう、実はバージルはこの男が、一目見た時から、不愉快だった。 ……婚約者の身でありながら、ベアトリーチェが一人の男を四六時中侍らせているその有様が。遥か東の地より来たという、この得体の知れない毛色が。「執事がなぜ、ここにいる?」「フム。あえて言うならば、“すべて、我らの手のひらの上だったから”と言ったところでしょうか」 怪訝に思ったバージルが、その意味を問おうとした時、そこにとうとう雪崩れ込んできたのは、武装した兵たち。 「ようやく見つけたぞ! ハンノキの王の贄となれ!」と叫びながら、侵入して来るが。「静粛に。今は、“我”がこやつと話しているのだ。……三下如きが口を挟むな」 イヅルは、襲い掛かる刺客へと、苦無で牽制したかと思えば、流れるように関節を極め、骨を砕き、意識を刈り取っていく。(この者は……ただの執事ではない!?) 倒れ伏した兵たちの姿。思い返すは、『図書館事件』の夜。街で見つかった、謎の戦闘痕跡。「まさか、あれは貴様がやったことだったのか?」「バージル殿下。感心している時間はございませんよ」 背を向けたまま、淡々と告げるイヅル。「現在、マティルデ・ファン・シャーデフロイ夫人が、王都近隣に『空挺部隊』を率いて潜んでおります」「はあ? マティルデ夫人だと? それも空挺部隊など、バカを言うな。一介の貴婦人が私兵を率い、王都の空を制圧するなど、正気の沙汰ではない。それはもはや反逆罪にも問われうる行為だぞ!」「この状況で何を言うやら。合図を送れば、直ちに介入が行われ、この混乱は鎮圧されるでしょう。ですが、それには今少し、準備が必要なのです」 どう聞いても、正気ではない。 仮に、かつて我が国が戦ったという仇敵。あの&l
――時は、少し遡る。 華やかな夜会の裏側。 賑わいが、最高潮に達しようとしていた、その裏側で。「……なんだと? ヒュプシュが逃げ出した?」 バージルは、耳打ちされた報告に、露骨に顔をしかめた。 報告者は、腹心の騎士ローラント。「はい。どうやら、あてがわれた部屋を抜け出したようでして」「やれやれ。あの男も、大人しく謹慎していれば良いものを」 バージルは、やれやれと呆れる。だが、同情もした。 不自由はさせていないとはいえ、軟禁状態で夜会の音楽を聞かされるのは、あの気位の高い男には耐え難かったのだろう、と。 それでも、嫌疑の晴れていないヒュプシュ卿が、逃亡劇を繰り広げているとなれば、無視するわけにはいかない。「まったく。世話の焼ける男だ。……行こうか、ローラント」 ――どうせ、今宵のエスコートすべきだったはずの『|燃える薔薇《フォイアローゼ》』は、別の男たちに向けて咲いているのだ。 バージルは、どうにも切ない気分になりつつ、人目を避けて会場を出た。「捜索隊を出すぞ。大ごとにせず、速やかに連れ戻すのだ」 自らが統率する、警護騎士団を招集。 しかし、人気のない廊下を進むにつれ、バージルは奇妙な違和感に襲われた。 集まった護衛騎士たちの様子がおかしい。 呼吸は乱れ、瞳は昏い。まるで、見えぬ糸で操られるマリオネットのように、力なく歩を進めてくる。「そなたら、どうしたというのだ?」 不審に思い、声をかけた途端。 騎士たちが、一斉に抜剣し、バージルへと襲い掛かってきた!「なっ、乱心したかッ!」 とっさに剣を抜き、応戦するバージル。しかし、多勢に無勢。「殿下。どうか抵抗は、なさらないでいただきたい」 さらに陰から、数名の護衛騎士たちが現れる。皆、剣を抜き、切っ先を向けて来る。「ローラント、これはどういうことだ!? 彼らは…&hellip
「確かに、私は|剣聖《マギステル》に至らぬ身ではございますが……この程度で籠城可能と思われては、悲しく思います」「わかっているとも。……お前の実力がどれほどか、は」「そうでしたか。まるで、聞き分けのない迷子を、捜しに来た気分でしたよ。なぜよりによって、このような袋小路に?」 だが、バージル殿下は問いには答えなかった。諦念の混じるため息を吐きながら返す。そこに恐怖心はなかった。「はあ。そなたこそ、“なぜ”だ、ローラント。そなたは、この私の剣ではなかったのか?」「ええ、その通りです。私は、殿下の剣であり、盾です。だからこそ……殿下を“あるべき場所”へとお導きせねばならない」「そなたが言うところの、王とやらの元に?」「ええ、そうです。我が主君、ハンノキの王の御許へと」 霧がかる、暗き森。主の御許。 綺麗な花も咲いて、黄金の衣装もございます。 歌や踊りを、平和な世界で楽しみましょう。 「さあ、敬愛する殿下よ、聡明なる殿下よ、私と一緒においでください。素晴らしい遊びをいたしましょう」 嫌がるならば、力づくでもお連れしますよ。 敬愛する殿下よ、聡明なる殿下よ。 口ずさむように、ローラント殿は一歩ずつ迫る。「嘘……嘘よ、ローラント殿! 貴方ほどの騎士が、こんな……こんな酷いことをするなんて!」 わたくしは、思わず語り掛けた。未だに、この現実が信じられなかったから。 すると、ローラント殿は目を細める。「酷い、ですか? ふぅ、貴女様にはそう見えますか。……ああ、さては目的は時間稼ぎですね? ふふ、まあ良いでしょう」 奇妙な納得の仕方をする、ローラント殿。なにかがすれ違っている。「結局、最後まで立ちはだかるのは、貴女様でしたね」「立ちはだかる? …&hel
血まみれのローラント殿が、こちらへ歩み寄ってくる。 逃げなければ。そう思うのに、足がすくむ。「さあ、参りましょう。その献身を、我が王が忘れることはないはずです」 優しい微笑み。彼の手が、わたくしに触れようとした、その刹那!「――させんッ!」 横合いから、雷鳴のような怒号と共に、青白い閃光が迸った。鏡の迷宮に、裂帛の気合いが響き渡る。 ガギィィィンッ! だが、ローラント殿は、その奇襲を弾く。 ――仕掛けたのは、息切らす、バージル殿下。「殿下っ!?」「遅くなって、すまない! 無事か、ベアトリーチェ!」 黄金の髪を振り乱し、ドレスシャツを汗と血で汚した――我が婚約者! かつて感じた冷淡さは微塵もない。ただ真っ直ぐに、わたくしを案じる。「おや、殿下。もうお戻りになるとは、ああ、やはり殿下は、本当に正義感のある、素晴らしいお方だ」「皮肉か、貴様ッ」「いいえ、本心ですよ。ベアトリーチェ様を、苦しませずに済みました」 ローラント殿は、悪びれる様子もなく称賛する。宿る、一点の曇りもない、主君への敬愛。 だからこそ、不気味だった。「下がりたまえ、バージル殿下。私が、せっかく逃がしてやったと言うのに、戻って来るとはどういう了見だね?」 背後から、よろよろと立ち上がったヒュプシュ卿が悪態をつく。 彼は、血まみれの剣を構え、ローラント殿を挟み撃ちにする形をとった。「ヒュプシュ! 生きていたか!」「あいにく、死にぞこなったところだが。ここから先は保証せんよ。さっさと、ベアトリーチェ嬢を連れて逃げるんだな」「ならば、加勢しろ! 可能ならば、ここでローラントを抑えるっ!」「チッ、間抜け王子。こんな時でも、頭の堅さは変わらずか」 バージル殿下とヒュプシュ卿。かつての敵対者同士が、今、並び立って剣を構える。 しかし、ローラント殿は、その二人の剣圧を前にしても、余裕を崩さない。「国を憂う若きお二人が、手を取り合う。感無量です。ですが
かつ、かつ、かつ。 ヒールの音が反響する。 わたくしが駆け込んだ先は、王宮の奥深くにある『鏡の回廊』。王宮の裏口や、重要区画へと通じる動脈。(バージル殿下が逃げるとしたら、あるいは連れ去られるとしたら、このルートを使うはずよ) そう、踏んだのだけれど。 ふと横を見れば、そこには無数の“わたくし”がいた。 壁一面を覆う鏡が作り出す、終わりのない合わせ鏡の迷宮。 わたくしが一歩踏み出せば、鏡の中の何百人ものわたくしも、一斉に動く。(増殖する、虚像のわたくし) なぜか、嫌悪感が走る。 深紅と緑の斑入り大理石の柱。その柱頭から見下ろす、勝利の女神。頭上のフレスコ画から見下ろす、歴代の王たちの影。 あらゆる絢爛さが、鏡の中で歪み、増殖し、現実の境界を曖昧にしていく。(怖い。まるで、過去の亡霊たちが、姿を借りてこちらを覗いているみたい) 普段は、煌びやかなはずのこの場所が、今は、ただひたすらに不気味。 わたくしは、この震える体を抱きしめながら、前に進んだの。 そして、そこで目にしたのは――。「ぐあっ!?」「くそっ、こいつら、強すぎるっ!」 殿下の護衛騎士たちが、次々に薙ぎ倒されていく光景だった。 立っていたのは、ヒュプシュ卿と、あの鉄拳カールと呼ばれていた巨躯の騎士。 (ヒュプシュ卿!? それに、あの騎士まで!?) わたくしの思考は、瞬時に結論を出した。「この二人こそが、この事態を招いた裏切り者なのだわ! ヒュプシュ卿が、温室で捕らえられたのは、誤解ではなかったのね!」 宰相家の嫡男と、騎士団きっての武闘派。そんな二人が、殿下の護衛騎士たちを攻撃している。もはや、疑いようのない真実に見えた。 わたくしは、とっさに柱の陰に身を隠す。だけど、戦いを終え、騎士たちが動かなくなったのを確認すると、二人はゆっくりと近づいてくる。「――そこにいるのは、誰だ?」「おい、若。…&he